|
幼年時代の傷心を逆説的に癒す
ある日、私は逃亡を決心しました。日本での私は死んだようなものでした。生きつずけるために、新たなる地を求めてフランスに辿り着きました。3歳の時、私の失敗に対して、毋は家を出てゆくようにと言うので、私は母の言葉のとうり、一緒に遊んでいた宝物を残らず箱に詰めて家を出ていきました。家の近くの良く知った公園で一夜を過ごし、明くる朝、警察に連れられて家まで無事保護されました。以来、私自身はノマド、放浪者、逃亡者、のように生きているようです。フランスに到着して以来、生まれたばかりの赤ちゃんが、言葉を覚えるように、フランス語を学びました。 文化の変換によって新たな意義を見出すと共に、フランスの思考構造と言語によって解放され、こうして今日、《未婚の花嫁》写真製作を実現するにいたりました。このシリーズにおいては、家のしきたりによって決められる結婚のあり方と日本人女性の境遇をもとに、幼年時代の結婚に対る恐怖と恐れを、逆に主題として製作することで、新たに結婚の意味を探しだそうとしています。8才の時、母は密かに彼女の結婚を話してくれました。私の両親の結婚は互いの親族同士で決められたもので、二人は結婚式の当日に初めて顔を合わせたということでした。そのショックは未だに忘れることはできません。 今日、悪魔祓い的とも言える形象を連鎖させることで、私は触れ得ぬ未婚の花嫁という、パラドックスに満ちた花嫁を具現化しますが、そのアイデンティティは、劇的であると同時に空想的であり、繊細かつ滑稽、そして矛盾に満ちたものです。私は東京でのモードの体験からさらに飛躍し、寡婦、宇宙飛行士、中国人、マンガのキャラクター、エジプト人と、変幻自在の未婚の花嫁の架空の結婚式を演出すべく、ほとんどモノクロームと言ってよい、多種多様のセルフポートレートを創り出しています(1)。
とめどなく活動する感覚の流れ
この自画像のシリーズは一連のアイデンティティ、つまり思考の連なりとして連鎖する多様な内省から成っています。言わば、とめどなく活動する感覚の流れであり、その中で生命は大気のごとく常に姿を変える。私はこの一連のイメージを、ジェイムス・ジョイスの『ユリシーズ』の、あの有名な《意識の流れ》にも通じる内的独白という方法で提示したかったのです。意識の流れにおいてこそ、主観の時空が具体化されるのです。 時空の概念は日本の美学において重要な位置を占めており、《間》という概念を生み出しています。ジョイスの小説で、フレーズの絶え間ない継起が思考の通りをよくする風穴を多く穿つように、イメージの連鎖は意味とアイデンティティの浸透性を増大させ、主観の流れる《間》を浮かび上がらせてくれます。 私の探求は、思考の統一化ないし自己同一化を目指すというよりむしろ、私の関心、直感の拡大を促そうとするもので、人生同様芸術においても自由であろうとするのがねらいです。例えば、私は状況に応じて、日本料理も作れば、中華料理、田舎料理、ボルドー、イタリア料理も作ります。これと同様に、私は連続して継起する想念、もしくは同時に多発する想念を展開しているのです。 ものの有限性と精神の触れ得ぬ眼差し
ほとんどの写真で未婚の花嫁はベールに覆われています。婚礼前には花嫁となる者を人目から避けるためのこのベールは、その瞬間にはまだ結婚が完遂されていないという証しです。やがて確実にそれが取り除かれるということを物語ってもいます。今にも取り除かれようとするその瞬間に、薄い膜でしかないベールは、未完遂、期待、さらにはタブーの念をも呼び起こします。また、一体感、繊細なエロティシズム、つかの間の誘惑を表し、事物の有限性をも物語っています。このように、多くの文化に共通する結婚におけるベールは、単なる処女性のメタファー以上のものがあります。つまり、消滅のシンボル、潜在性と不可侵性の証しでもあるのです。 危機に瀕した自己の再生、逃げ去る幼年時代、失われた時の追求を超えて、私のイメージは不可視の存在に可視の表現を与えます。見えるものと見えざるもの、出現と消滅、見かけと無化との狭間で、自らの自画像を単色化してゆくこと。そうした方向性により私は精神の触れ得ぬ眼差しを示そうとしているのです。それには、禅の「山は山のごとし。」という格言が念頭にあります。禅の慣習により修行者は山を前に座禅を組みます。瞑想の第一段階で山は消えます。さらに上の段階に進むと、山が再び現れるといいます。この瞬間こそ、通常の限界から解放された存在が外界と一体化する瞬間ではないでしょうか。 色彩と時間の無限
単色の世界を希求することによって、色彩の領域は狭くなるどころか、無限の感覚が開かれます。単色のヴァリエーションが幾層にも渡り無限に重なり合うモノクロームの世界からは、目で追っても識別不可能な無限の色彩が浮上します。むしろ多色から成るイメージのほうが、色の数は識別しやすく、限定されがちです。一方、モノクロームのイメージは色彩の無限を解き放ちます。そして、この色彩の無限は時間的無限でもあります。一色から生まれる控えめな色調の無限、それを際限なく凝視しつつも、眼差しはいつまでたっても何かを味わい尽くしてしまうことはない。モノクロームの世界はそれを見つめる眼差しを無限にエロス化します。これは持続の純粋形象であり、そこではどんなイメージも、またどんな物語も解体され、消え去っています。色彩の無限を前に眼差しは、時の無限に向かって開かれていると言ってよいでしょう。 イメージを構成すると同時にそれを不完全なものにもしているモノクロームの作品ですが、形象はその単色の世界に溶解してゆく傾向にあります。単色のイメージを求めることは、自己の相次ぐ瞬間について内省することでもあります。間接的で非常に柔らかな陰翳に支えられている私の写真では、単一の色彩が、水面を描く水彩画のタッチのように漂います。主観の浸透性が活発になる場でもある、変幻自在の感覚が、この単色によって表現されているのです。これは、私のイメージを再浮上させることにより私を消し去ろうとする、ひとつの探求であります。 欲望それ自体に無縁な欲望——このパラドックスを前面に打ち出した、これら《触れ得ぬ花嫁たち》、未婚の花嫁たちはそもそも矛盾に満ちていますが、私の個展のタイトルとなっている《MARRYME!》の現実離れした命令句により、矛盾の意味合いは一層強まります。モノクロームの世界でこそ、半透明、非物質、あるいは触れ得ぬものの意味が明らかになるのですが、こうした単色の世界を視野に入れつつ、私の自画像のそれぞれは、出現と消滅のイメージとして明滅します。 イメージの彼岸をもくろむこのパラドックスに富んだ表象はその都度、不可能、無力、不安定の表象として現れます。この不完全性効果こそが、イメージの究極の意義を彼岸へと導くのです。
アイデンテイテイの複合と分離
私は最近、オートポートレートの新しい手法を実践しました。それはオートレリーフと言うべきもので、私自身の顔が、もう一つの顔を映し出すための台紙の役目を果たすという、ブラインドミラーの仕組みになっています。まず、顔の型取りの後、白樹脂を流しこみ顔のオブジェを製作します。その表面にスライドによって投影される色彩が、絵を描くかのようにその顔に覆いかぶさるというものです。写真投影の光によってうみだされる粒子の皮膚の質感が、私の立体の顔を包み込みます。立体と映像による二つの顔は、ダイレクトに重なり合う。これらは同じ顔を表してはいるが、ムラージュの顔とイメージの顔という本質的な違いがあります。 この二つの顔を見る者は、同じ顔でも立体と映像という決定的な違いを見出すはずです。彫像の上に重なった写真、顔の上に重なった顔は、くり返すイメージの歓喜に満ち溢れていますが、そうした性質をも超えて、他の自画像(触れ得ぬ花嫁)と同様、この鏡の仕組みに曖昧で判然としない無音の重々しさを見てとります。 このスライドとレリーフの重ね合わせにより、どんな形象もそれ自体が分裂しているという、構造上の分裂が浮き彫りになります。単に、レリーフの上にスライドの映像が加えられただけでなく、この仕組みにおいては、合一性と分離という対極する二つの要素が重なり合っているのです。 私の自画像の二つの顔は、接近していると同時に離れており、その近さゆえに親密に乖離し、相容れない。立体とイメージという二つの顔の完全な同一化を禁ずるこの隔たりゆえに、乖離と接近が対峙する。眼差しとその対象の間にある埋めることのできないこの溝。あらゆる表象の意義が見え隠れするイメージの彼岸を物語るこの深淵。ここに浮上する曖昧さは、こうした底なしの空隙から生まれるのです。 何はともあれ、私は一種の不安とともに自らの自画像を、ひとつの純粋なイメージとして、つまり、意味を超越した魅惑的で恐ろしい力として見つめています。
(訳:近藤磨郎、著者) 註(1) |